真のランゲはどれ?ドイツ時計の歴史。

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みなさんこんにちは、アストです。
今回は、ドイツ時計の歴史について触れてみたいと思います。
時計と言えばスイスのイメージかと思いますが、実はドイツも品質の良い時計を作ることで有名なんですよ。
ドイツ時計の聖地と言えば、ザクセン州グラスヒュッテ。
A.ランゲ&ゾーネの創業者、フェルディナント・アドルフ・ランゲが開いた時計工房にルーツを持ちます。
ザクセン州にはかつてザクセン王国という国があり、グラスヒュッテは銀採掘で栄えた街でした。
しかし、アドルフ・ランゲが生きた当時のグラスヒュッテでは銀資源が枯渇してしまっており、街は貧困に苦しんでいました。
ザクセン王室はグラスヒュッテを町おこしするためのアイデアを募り、当時ザクセン王国の宮廷時計師であったアドルフ・ランゲの「時計製造業を中心とした町の活性化」という提案が採用されます。
結果、1845年、アドルフ・ランゲは、多額の融資を受けて15人の見習い工とともにザクセン王国首都ドレスデンからグラスヒュッテに移住し、独立工房を開設しました。
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時計産業によるグラスヒュッテの再建は大成功でした。
アドルフ・ランゲと共にグラスヒュッテにやって来た見習い時計師達も成長し、やがてゼンマイや歯車、ケースといった部品専門工房として独立して行きます。
結果グラスヒュッテは、ランゲの工房を頂点とする時計産業地帯へと姿を変えたのです。
普仏戦争が終結した1871年頃から第一次世界大戦にかけて最盛期を迎えたグラスヒュッテの時計産業でしたが、世界恐慌とそれに伴う急激なインフレーションによって出荷数が激減してしまいました。
これはグラスヒュッテにあったそれぞれの時計会社が、統合企業を設立することによって乗り切ります。
乗り切ったは良いものの、第二次世界大戦の勃発によりグラスヒュッテの工房は軍需工場として利用されることになりました。
そして対戦中、ソビエト連邦軍の空爆によって工房が焼失。
設計図や工作機械が失われ、グラスヒュッテの時計産業は壊滅的な打撃を受けてしまいました。
戦後ドイツは東西に別れましたが、グラスヒュッテ時計産業の資産と設備は東ドイツに接収され、1951年にA.ランゲ&ゾーネやウニオン(ユニオン)、シュトラッサー&ロウデといった時計会社が全てグラスヒュッテ国営時計会社(グラスヒュッテ・ウーレンベトリーブ(略称GUB))に統合されました。
ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが晴れて統一を果たした後、1990年グラスヒュッテ国営時計会社(グラスヒュッテ・ウーレンベトリーブ)は民営化。現在のグラスヒュッテオリジナルになり、その後2000年にスウォッチグループの傘下になります。
同じく1990年、西ドイツに亡命していた4代目ランゲ、ウォルター・ランゲがIWCと協力し、A.ランゲ&ゾーネの商標を再登録。ブランドが再建されました。こちら方は、その後2000年に、再建を支援したIWCと共にリシュモングループの傘下となりました。
その後、グラスヒュッテを代表するこの二大ブランドを筆頭に、ドイツ時計は現在の形になります。
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いかがでしたでしょうか。ドイツ時計の歴史。
ドイツ時計の創業者アドルフ・ランゲの正統な工房設備と人員を継承しているのは実はグラスヒュッテオリジナルだったんですね。
現在のA.ランゲ&ゾーネは、アドルフ・ランゲの血筋という意味では確かに正統なのですが、あくまでも再建ブランドなので別物なんです。
ドイツ時計の質実剛健でシンプルなモノ作りは、日本のクラフツマンシップにも通づるところがあり、非常に魅力的です。
しかし、この部分に関しては未だ謎や議論の余地の多い部分であり、時計好きの間でも度々議論されることがあります。
ウォルターランゲさんがA.ランゲ&ゾーネを再建する際、民営化されたグラスヒュッテウーレンベトリーブから工作機械や設備を買い取ったり人員を引っ張って来たりしているわけなのですが、ウォルターさんが一体何を買い取って何がグラスヒュッテオリジナルに残ったのかによって、創業者アドルフランゲの正当な血筋がどこにあるのかが変わって来てしまうのです。
半端に議論に混ざろうとすれば大火傷を追ってしまうほどに熱のこもった議論がされることが多いので、私の本記事もそういう話の中の一説として理解していただければと思います。
以上、アストでした。